ログイン休日の桜都市・商店街。
石畳の路地を歩く足取りは、裁判所への道中より軽やかだった。東條菊乃は白いワンピースに淡いカーディガン。
黒髪をきちんとまとめ、誰が見ても“令嬢のお出かけ”そのものだった。向かう先は――話題のカフェ「カフェ・ロッソ」。
(SNSで毎日のように写真を見ますわ。名物はベリーを宝石のように散りばめたタルト……。優雅な休日にふさわしい場所ですわね)
ガラス扉を押して入店。
木目調の家具と観葉植物が並び、落ち着いた空気が漂っていた。 「いらっしゃいませ」 迎えたのはバリスタ姿の西園寺慎。 落ち着いた笑顔に、菊乃は小さくうなずく。 「ブレンドコーヒーを一つと……“ベリータルト・ロッソ”をお願いいたします」 やがてテーブルに運ばれたのは、苺、ブルーベリー、ラズベリーを宝石のように飾ったタルト。(……まさに宝石。わたくしにふさわしいスイーツですわ)
コーヒーを一口。
深い香りに、肩の力が抜けた。(あの裁判から、やっと解放されましたわ……)
思い返すのは、家賃滞納の少額訴訟、隣地境界のトラブル。
(司判事は、どうして規則を軽んじて……。けれど、当事者が救われていたのも事実。
……理解不能ですわ)ため息をつき、タルトを切り分ける。
カラン、とドアベルが鳴った。 同時に「ふんふんふふーん♪」という鼻歌が流れ込む。菊乃が振り向くと――
赤いタータンチェックのスカートに黒いブラウス。
同柄のベレー帽と真っ赤なリボン。 黒タイツにローファー。奇抜な姿で鼻歌を奏でていたのは――花霞地方裁判所桜都支部判事、司 法子だった。
菊乃は顔をそらし、心臓がどくりと鳴る。
(なぜ、この人が……? まさか、同じタルト目当て?)
胸の奥でざわめきが広がる。
「やぁ、慎ちゃん! 久しぶり〜!」「……久しぶりだな、ロックスター」
「イェーイ☆ 今日もノッてるぜ〜!」
法子は腰を下ろすなり声を上げ、馴れ馴れしく手を振る。 菊乃に気づく様子はない。 「おばけプリンと、地獄のコーヒーをセットで!」 一瞬で店内が凍る。 菊乃はフォークを止め、手を握りしめた。“おばけプリン”――直径二十センチの巨大プリン。
ホイップとチェリーを山盛りにした裏メニュー。 頼む者は法子しかいない。“地獄のコーヒー”――豆三倍、漆黒の一杯。
苦味とカフェインで胃が悲鳴を上げる代物だ。(……っ、やはりベリータルトどころではありませんでしたわね! よりにもよって、そんな怪物メニューを……!)
法子はカウンターで腕を組み、にやり。
「そうそう、慎ちゃん、聞いてよ。最近さ、うちに真面目すぎる書記官が来てね――」(……!)
菊乃の肩がびくりと揺れる。
法子は楽しげに声色を変えた。
「判事っ、それは規則に反しておりますわ!」 両手を腰に当て、顎を上げる真似。 西園寺が吹き出し、常連客も笑いをこらえきれない。さらに法子は立ち上がり、叫んだ。
「プリンに例える必要は、まったくございませんわっ!」 両手を大げさに振り回すその姿に、笑いをこらえる西園寺。 客の一人はコーヒーをこぼした。(……っ!?)
頬が熱くなり、菊乃はついに立ち上がった。
「判事っ! あなたという方は――っ!!」 法子は目を丸くし、すぐに満面の笑顔になる。 「おやぁ? おキクさん、奇遇だねぇ」「は、はわわわ……」
顔を真っ赤にして硬直する菊乃。 その姿に客たちの笑いが広がった。西園寺が肩をすくめる。
「……確かにそっくりだ。いつから“モノマネ女王”になったんだ、ノリコ」「おっと、バレたか!」
法子は両手を広げて笑う。 西園寺はため息をつき、カウンターを拭きながら言った。 「まったく、仲がいいのか悪いのか……。ほら、あそこの席でやってくれ」「へいへい、慎ちゃんの言うとおり〜」
法子は菊乃にウィンク。 「おキクさんも、一緒にどうぞ?」「わ、わたくしは……っ!」
視線を感じ、観念してうなずいた。 「……し、仕方ありませんわね」 菊乃は落ち着かせるように大きく深呼吸して、結局は法子の後ろを歩く。ほどなくして運ばれる“おばけプリン”と“地獄のコーヒー”。
店内の視線が集中する。 「ふっふ〜ん♪ 来た来た!」 法子はスプーンを突き立て、にこにこ。 「おキクさん、このコーヒー、飲んだら胃が爆発するんだよ!」「何を嬉々として語っておりますの!? そもそも“地獄”なんて不謹慎ですわ!」
「いやいや、ここまで苦いと逆に清々しい☆ 判決文だって三本立てで書けそう!」
「絶対に間違った方向にしか仕上がりませんっ!」
菊乃のツッコミに、法子はけろりと笑ってスプーンをくるりと回す。 二人のやり取りは、漫才そのものだった。 そのとき、客の声が響いた。 「……ない! 財布がないっ!」 一瞬でざわめく店内。 「誰か盗ったに違いない!」「俺じゃない!」
「隣の席でガサゴソしてたのを見たぞ!」
疑心暗鬼が広がる。 菊乃は立ち上がりかけた。 「け、警察に――」「まぁまぁ、おキクさん、落ち着いて!」
法子が立ち上がり、のんきな声をあげる。 「財布なんてさ、プリンのカラメルみたいに沈んで隠れてるだけかもよ?」「財布を“カラメル”に例える意味はありませんわっ!」
シーンとする店内。 次の瞬間、何人かの客が吹き出し、空気がふっと緩む。法子はソファの下を覗き込み、声を張った。
「おっと〜! ここはカラメルゾーン! ……なになに? ほら、プリンの底から出てきました〜!」 ごそりと出てきたのは、問題の財布だった。「……ありました……」
男性は赤面し、頭を下げる。
「す、すみません。ただ落ちていただけでした……」 店内は安堵の笑いに包まれた。菊乃は深く息をつき、席に戻る。
法子は巨大プリンをすくい、漆黒のコーヒーをぐいっと飲んだ。 「ぷはーっ! この苦味、クセになるんだよねぇ」「……まったく。せっかくの休日が台無しですわ」
菊乃は呆れたような表情で視線をそらす。 だが、その声には少し力が抜けていた。窓の外に夕暮れの橙色。
街の喧噪はゆるやかに静けさへと変わっていく。菊乃はふと横目で法子を見る。
(……この人は破天荒で規則知らずですが、なぜか、ここでは馴染んでいるのですわね……)
心のつぶやきは、タルトの甘さとコーヒーの香りに溶けていった。
(つづく)
法廷の扉が開く。 黒い布が風をはらむ。 ばさり。 法服の裾を派手に鳴らしながら、判事・司 法子が裁判長席に腰を下ろした。「令和15年(ワ)第121号、奨学金|求償《きゅうしょう》請求事件。開廷します」 いつになく、法子の声は落ち着いている。 原告は、会社社長で被告の連帯保証人、佐久間典夫、58歳。 原告代理人は、56歳のベテラン弁護士、山崎慶一。 被告は、奨学金の借入人・篠原|湊《みなと》、アルバイトをしながらバンド活動を続ける25歳。 被告代理人は、法子の司法修習同期・高梨悠人、30歳。 書記官・東條菊乃が起立して出席を確認する。 原告本人は不出廷、代理人のみ。 被告本人および代理人の出席を確認。「では、弁論を進めます」 山崎が立ち上がる。 落ち着いた声、無駄のない言葉。「原告は、被告が大学時代に借り受けた奨学金1000万円につき、返済計画――20年|元利均等《がんりきんとう》、月々46,887円――の履行がなされず、三年間で1,687,932円の弁済期経過分が発生したため、連帯保証人である原告が残金の全額を立替いたしました。よって、弁済期経過分1,687,932円の求償を請求します」 続いて高梨が立つ。 目が合い、一瞬だけ司法修習時代の顔を思い出す。「被告・篠原湊は返済の意思を持ち、少額ながら支払いを再開しています。生活は逼迫していますが、音楽の道――バンド活動と作曲で生きていく夢を諦めておりません。判決におかれては、その誠意を斟酌いただきたく――」 堪えきれず、被告本人が声を上げた。「……どうしても、音楽を諦められないんです!」 細い体に不釣り合いな声。 夜のライブハウスで歌ってきたその声は、まだ舞台を夢見ていた。 法子の瞳がきらりと光る。「いいね。いいねー、どんな音楽やってるの?」「判事っ! 審理に不要な発言は規律違反ですっ!」 菊乃の声が鋭く響き、法廷がざわつく。 法子は頬を膨らませ、机を指でとんとん叩いた。「ちょっとくらいいいじゃん。……音楽の話、いいじゃん」 山崎が咳払いし、再び記録に戻る。 こうして第1回期日は粛々と終結した。 裁判所・執務室。 紙とインクの匂いが漂う午後。 菊乃は記録を束ね、深く息を吸う。「被告の訴え……嘘ではありません。返済を再開し
休日の桜都市・商店街。 石畳の路地を歩く足取りは、裁判所への道中より軽やかだった。 東條菊乃は白いワンピースに淡いカーディガン。 黒髪をきちんとまとめ、誰が見ても“令嬢のお出かけ”そのものだった。 向かう先は――話題のカフェ「カフェ・ロッソ」。(SNSで毎日のように写真を見ますわ。名物はベリーを宝石のように散りばめたタルト……。優雅な休日にふさわしい場所ですわね) ガラス扉を押して入店。 木目調の家具と観葉植物が並び、落ち着いた空気が漂っていた。「いらっしゃいませ」 迎えたのはバリスタ姿の西園寺慎。 落ち着いた笑顔に、菊乃は小さくうなずく。「ブレンドコーヒーを一つと……“ベリータルト・ロッソ”をお願いいたします」 やがてテーブルに運ばれたのは、苺、ブルーベリー、ラズベリーを宝石のように飾ったタルト。(……まさに宝石。わたくしにふさわしいスイーツですわ) コーヒーを一口。 深い香りに、肩の力が抜けた。(あの裁判から、やっと解放されましたわ……) 思い返すのは、家賃滞納の少額訴訟、隣地境界のトラブル。(司判事は、どうして規則を軽んじて……。けれど、当事者が救われていたのも事実。……理解不能ですわ) ため息をつき、タルトを切り分ける。 カラン、とドアベルが鳴った。 同時に「ふんふんふふーん♪」という鼻歌が流れ込む。 菊乃が振り向くと―― 赤いタータンチェックのスカートに黒いブラウス。 同柄のベレー帽と真っ赤なリボン。 黒タイツにローファー。 奇抜な姿で鼻歌を奏でていたのは――花霞地方裁判所桜都支部判事、司 法子だった。 菊乃は顔をそらし、心臓がどくりと鳴る。(なぜ、この人が……? まさか、同じタルト目当て?) 胸の奥でざわめきが広がる。「やぁ、慎ちゃん! 久しぶり〜!」「……久しぶりだな、ロックスター」「イェーイ☆ 今日もノッてるぜ〜!」 法子は腰を下ろすなり声を上げ、馴れ馴れしく手を振る。 菊乃に気づく様子はない。「おばけプリンと、地獄のコーヒーをセットで!」 一瞬で店内が凍る。 菊乃はフォークを止め、手を握りしめた。 “おばけプリン”――直径二十センチの巨大プリン。 ホイップとチェリーを山盛りにした裏メニュー。 頼む者は法子しかいない。 “地獄のコーヒー”――豆三倍、漆黒の一杯。
ばさり。 法服の裾を鳴らし、判事・司 法子が裁判長席に腰を下ろした。「令和15年(ワ)第102号、境界確認等《きょうかいかくにんとう》請求事件――開廷しまーす!」 法子の明るすぎる声に、当事者と代理人が目を丸くする。 書記官・東條菊乃が条件反射のように後方の法子を振り返った。「司法の場で“しまーす”は不適切ですわっ!」 法子は菊乃にウインクを飛ばし、ファイルを開いた。 菊乃の胸に冷たい汗がにじむ。──一週間前。桜都簡易裁判所・調停室。 令和15年(ノ)第58号、境界確認等調停申立事件。 午前10時。 法子は昭和レトロなチェック柄ジャケットに太いネクタイ姿で現れた。「……は、判事。タイムスリップしてこられたのですか?」「昭和レトロは今アツいんだよ。プリンだって固めが人気なんだからね」 菊乃は、呆れたように深いため息をつき、吐き捨てるようにつぶやく。「……プリンを引き合いに出さないでくださいませ」 当事者と調停委員がぽかんと口を開く。「はいはい、調停はじめましょっか!」 申立人は農家の田嶋美佐子、52歳。 相手方は建設会社勤務の片桐孝志、48歳。 争点は畑と自宅を隔てるコンクリ塀の境界線だった。「塀の半分が私の土地に入り込んでいます!」「測量結果を見れば、そっちこそ主張がズレてる!」 声が大きくなり、空気が熱を帯びる。 それぞれの主張を法子はしばらく眺め、ぱん、と手を叩いた。「はい、ストップ! ……塀をシェアするってことでどう?」「「「そんなことできませんっ!」」」 三人の声が揃った。 菊乃は眼を見開いて立ち上がっている。「……え? ダメ?」「当然ですわ! 境界を“シェア”などあり得ません!」 法子は少し頬を膨らませる。「でも、プリンだって――」「あなたのプリンは規律違反ですっ!」 凍りつく調停室。 当事者と調停委員があぜんと見つめる。 沈黙の後、法子は肩をすくめ、小声でつぶやいた。「……やっぱ固めプリンのほうが良かったかなぁ――昭和レトロ……」「――ですから! プリンを持ち出すのをおやめくださいませっ!」 菊乃が机を叩く。 当事者たちは呆れ顔で、ついに片桐が立ち上がった。「これじゃ話にならん! 調停は決裂だ!」「わたしも、もう譲れません!」 険悪な空気。 法子は腕を組み、ため息
ばさり。 黒法服の裾を鳴らし、裁判官が入廷する。「令和15年(少コ)第34号、家賃請求事件――開廷しまーす!」 明るすぎる声に、原告も被告も目を丸くした。 書記官・東條菊乃は即座に立ち上がり、裁判長席を振り返った。「司法の場で“まーす”は不適切ですわ!」「条文に書いてなければノーカンでしょ?」 裁判官――司 法子は涼しい顔。 法廷の空気は、張りつめと苦笑の狭間で揺れた。 任官三年目。 まだ“補”の肩書きはあるが、この桜都《おうと》支部では一人前扱いだ。 地方の人手不足ゆえの特例を、法子は楽しんでいるようにも見えた。 三時間前。 桜都市の朝。 大衆食堂の引き戸が、がらりと開く。 緑のショートヘア、濃いアイライン。 赤いカラコンが鮮やかに映え、革ジャンにジーンズ、足元はごついブーツ。 どう見てもロックバンドのボーカル。「ふんふんふふ〜ん♪」 鼻歌まじりに出勤する彼女の手には、唐揚げ弁当とプリンの袋。 すれ違ったサラリーマンが囁く。「今日ってライブでもあるのか?」 ロッキン女は気にも留めず、軽快に歩いていく。 向かう先は花霞地方裁判所桜都支部《はなかすみちほうさんばんしょおうとしぶ》――彼女のステージ。 二時間前。 花霞地方裁判所桜都支部・執務室。 主任書記官の菊乃は、所長判事・桐生《きりゅう》重信から紹介を受けていた。「今日から司 法子判事補と組んでもらう」(緑髪ショートに革ジャン、赤い瞳……28歳? しかもわたくしが、この方と組む……?) 清廉で厳格な裁判官像は、一瞬で崩れ去った。 菊乃は姿勢を正す。黒髪をまとめた端正なスーツ姿の自分とは正反対。(本当に、この人と裁判を……?) 冷たい不安と緊張が胸に走る。 それでも表情を整え、小さくうなずいた。 原告はアパートの大家・高橋正雄、56歳。 被告は半年間、家賃24万円を滞納したアルバイトの内藤一哉、26歳。「仕事が減って、どうしても……」と被告。 大家は腕を組み、きっぱり言う。「契約は契約です。支払っていただかないと困ります」 菊乃の背後で、大きめのため息が漏れた。(判決は明白――なぜ迷うのです?) 振り返ると、法子は腕を組み、天井を見上げ、机を指でリズムよく叩いている。「ふむ……これはプリンの例えを適用するとわかりやすいんだよね」







